西高伝 丸山薫さん 後編

 育む次世代の夢、期待と願い

丸山薫さん(ピアニスト)

西高祭での演奏を終えて新聞部の取材に応じる丸山さん。 未来に育つ高校生に、かつての自分を重ねる。

 幼い頃からピアニストを志していた丸山さん。大宮西高を卒業後、本命の音大への進学は叶わなかった。やむなく、別の私立の音大に通い始めものの、すんなりと馴染めたわけではなかったようだ。「ぬるま湯」を感じた焦燥感の一方で、「このままでも良いかな」と居心地の良さもあった大学生活。複雑な心境の中、何が丸山さんをドイツへ向かわせたのか。

きっかけは 恩師からの

 「それで良いの?」。私立の音大に通ってしばらくすると、丸山さんは中学時代からの ピアノの恩師に、こう問いかけられた。複雑な心境は語るまでもなく「演奏で分かったんだと思います」と丸山さんは振り返る。たっ た一言ではあったが、当時の丸山さんにピア ニストになる夢を思い出させるには十分 だった。丸山さんは私立の音大を中退しド イツへ留学を決意。20歳の頃だったという。 文字通り、単身、トランク一つでドイツへ渡った丸山さん。並々ならぬ苦労もあったことと思うが、「私、苦労を苦労と思わない体質みたいなんですよね」と笑顔を見せる。 ドイツには、音楽を志す留学生が世界中からやってくる。その多くは、母国語が通じる者同士で集い、支え合う。それでもホームシックにかかる人は出るそうだ。ところが丸山さんは「せっかくドイツにいるんだから」と、ドイツ人の友人とばかり過ごす日々。ホームシックどころか、およそ6年半、帰国しない 期間もあった。

卒業アルバムに 奮起

 もっとも、帰国には時間もお金も必要になる。勉強に忙しく、経済的な余裕もない。そ れも含めて丸山さんにとって、充実した時期だった。久しぶりに帰国すると、丸山さんは 決まって西高の卒業アルバムを開いた。かつての友人の笑顔に、奮起したそうだ。 ヨーロッパ各地を演奏活動で行き来しながら、2002年にデトモルト国立音楽大学を首席で卒業すると、2006年にはライプツィヒ国立音楽演劇大学大学院を卒業。ドイツの国家演奏家資格を取得し、ついに自身が音大の講師として、若手を育成する立場となった。 ドイツに渡って20年ほど経った頃、丸山さんは40歳を手前に心境の変化があった。ドイツでの生活や仕事にも慣れ、不自由なく過ごせていたものの、挑戦する機会を見出せなくなっていた。「また、ぬるま湯だなぁと感じていたんです」。次第に、母国の日本で活躍したい思いが募る。家族や友人からは思いとどまるよう説得もされたが2016年、活動拠点を日本に移した。 

未来への願い

 丸山さんは現在、演奏活動の傍ら、地元の浦和区でピアノ講師を務めている。西高が中高一貫校へ移行することに何を思うのだろう か。丸山さんは「規律に厳しい学校だったら今の私はないかもしれない」と前置きしつつ、「大宮西高の持っている、おおらかさは残ってほしいです」と続けてくれた。おおらかさがあればこそ、丸山さんの夢は実った。 自身の経験を重ね、同じような風土に次世代の夢が育まれることを願った。



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