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Back To The Roots 緑川静香#1

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" Back To The Roots " とはゲストに大宮西での高校生活を振り返ってもらいながら、それが現在にどう繋がっているのかを同じく卒業生のインタビュワーが引き出す。 そんな過去のルーツから " 今 " に迫るインタビュー企画です。 記念すべき第 1 回目は女優・タレント・ファッションモデルなど幅広く活動されている"緑川静香さん"が 登場。緑川さんはいままで出身校を明かしていなかったのですが、実は彼女も大宮西の卒業生。今回初めて公表するということで " 大宮西 " での高校時代から現在に至るまでを大胆かつ赤裸々に告白して頂きました。 Interview:緑川静香 誰もが羨む 華 の JK 時代 ―まず緑川さんが 大宮西高校 に行くと決めた決め手はなんですか? 緑川   西高の制服が可愛かったからです!特に 夏服 !チェック柄のスカートがよかったんです! ―やっぱり大宮西の制服は昔から評判いいですもんね!でも今そのチェックのスカートってもうないんですよね … 緑川   えっ … そうなんですね … ショック … あれが可愛くて 推薦入試 で入ったのに … ―推薦入試で入ったんですか!?じゃあ成績は良かったんですね! 緑 川   よかったんですかね?(笑)でも実は私の一つ下の年から推薦入試がなくなって一般入試のみになったんです。やっぱり合格発表時は緊張したのを覚えてます。「一般受験したくない一般受験したくない」って念じてました(笑)。 ―入学をした後の高校生活はどんな感じだったんですか? 緑川   3 年間ダンス部でした!ダンス部が出来たばっかりにも関わらず、当時から 全国レベル で入部希望者がすごく多かったので先輩達の前で踊るオーディションを受けました。それで合格してジャズを踊ることになったんです。 2 年生の時にはソロで踊るための オーディション がありました。 ―結果は … どうだったんですか? 緑川   (ソロに)なれました。無事(笑)。 ― オーディション に強いですね!そのダンス部が人生初オーディションだったんじゃないですか

西高伝 丸山薫さん 後編

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  育む次世代の夢、期待と願い 丸山薫さん(ピアニスト) 西高祭での演奏を終えて新聞部の取材に応じる丸山さん。 未来に育つ高校生に、かつての自分を重ねる。  幼い頃からピアニストを志していた丸山さん。大宮西高を卒業後、本命の音大への進学は叶わなかった。やむなく、別の私立の音大に通い始めものの、すんなりと馴染めたわけではなかったようだ。「ぬるま湯」を感じた焦燥感の一方で、「このままでも良いかな」と居心地の良さもあった大学生活。複雑な心境の中、何が丸山さんをドイツへ向かわせたのか。 きっかけは 恩師からの  「それで良いの?」。私立の音大に通ってしばらくすると、丸山さんは中学時代からの ピアノの恩師に、こう問いかけられた。複雑な心境は語るまでもなく「演奏で分かったんだと思います」と丸山さんは振り返る。たっ た一言ではあったが、当時の丸山さんにピア ニストになる夢を思い出させるには十分 だった。丸山さんは私立の音大を中退しド イツへ留学を決意。20歳の頃だったという。 文字通り、単身、トランク一つでドイツへ渡った丸山さん。並々ならぬ苦労もあったことと思うが、「私、苦労を苦労と思わない体質みたいなんですよね」と笑顔を見せる。 ドイツには、音楽を志す留学生が世界中からやってくる。その多くは、母国語が通じる者同士で集い、支え合う。それでもホームシックにかかる人は出るそうだ。ところが丸山さんは「せっかくドイツにいるんだから」と、ドイツ人の友人とばかり過ごす日々。ホームシックどころか、およそ6年半、帰国しない 期間もあった。 卒業アルバムに 奮起  もっとも、帰国には時間もお金も必要になる。勉強に忙しく、経済的な余裕もない。そ れも含めて丸山さんにとって、充実した時期だった。久しぶりに帰国すると、丸山さんは 決まって西高の卒業アルバムを開いた。かつての友人の笑顔に、奮起したそうだ。 ヨーロッパ各地を演奏活動で行き来しながら、2002年にデトモルト国立音楽大学を首席で卒業すると、2006年にはライプツィヒ国立音楽演劇大学大学院を卒業。ドイツの国家演奏家資格を取得し、ついに自身が音大の講師として、若手を育成する立場となった。 ドイツに渡って20年ほど経った頃、丸山さんは40歳を手前に心境の変化があった。ドイツでの生活や仕事にも慣れ、不自由なく過ごせていた

西高伝 丸山薫さん 前編

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 友人と、先生方に恵まれた高校生活 丸山薫さん(ピアニスト) 在校生へのメッセージはドイツ語で綴ってくれた(詳細は次号にて)  ピアニストの丸山さんは、2018年9月の西高祭で演奏を披露。単身ドイ ツに渡り20年以上、現地で活躍を続けてきた実力に、来場者からは、大きな反響が寄せられた。5歳からピアノを習い、小学生でピアニストを志した丸山さん。 なぜ大宮西高を選んだのか。西高時代はどんな生徒だったのか。当時を振り返ってもらった。 願書提出 1ヶ月前の決断  中学時代の丸山さんは、授業が終わるとピアノはもちろん、音楽理論など、いくつもの レッスンに通っていたという。ハードな日々をこなしていたのは、理由があった。東京藝術大学附属高校へ進路を決めていたからだ。 しかし、試験の結果は不合格。私立高校の推薦枠もあったが、ピアノを優先的に続けられる、自由のきく学校はないかと案じていたところ、大宮西高が目に留まる。それは願書提出の1ヶ月前のこと。それまで5教科で受験す ることなど想定していなかったため、この時ばかりはピアノを休んで勉強したそうだ。 西高時代は 演奏の「糧」に  「すごく好きだった!充実した学校生活だったんですよ」高校時代を語る丸山さんの表情は明るい。「結果的に(東京藝術大学)付属高校に行かなくて良かったと思ってるんです」。10代後半を音楽とは無縁の友人と先生方の理解に恵まれ、普通科の生徒として過ごせたことは、現在の演奏活動に生きているからだと丸山さんは語る。興味深いことに、ピアノの演奏は、ただ楽譜に書かれた通りに弾けば良いわけではないそうだ。「ピアノと譜面は、役者さんと台本の関係に似ていると思います」。台本に書かれた台詞は、役者の解釈を通して表現される。音楽も同じで、奏者が楽曲を解釈するには、経験に基づく様々な感情を知らなければ表現できないという。 西高での3年間は「感情の引き出し」を作る上で、丸山さんの大きなアドバンテージとなったようだ。事実、高校3年時の丸山さんは、埼玉県ピアノコンクール(現・彩の国埼玉ピアノコンクール)高校生の部にて見事、 1位金賞に輝いている。  いざ本命へ リベンジ狙うも  高校卒業後の進路は東京藝術大学へと決めていた。その入試当日は西高の卒業式と重な り、丸山さんは卒業式に出席できなかった。 仲

西高伝 あらい太朗さん 後編

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卒業してからも、西高との縁は続く あらい太朗さん(漫画家、ラジオパーソナリティ) メッセージを依頼したつもりだったが、本格的なイラストを描いていただくことに。ありがとうございました。  現在活躍する大宮西高卒業生の素顔に迫っていくシリーズ「西高伝」。2回目は引き続き、漫画家、ラジオのパーソナリティなど、多方面で活躍している、あらい太朗さんだ。西高卒業してから現在に至るまでの軌跡をお聞きした。 「 西高気質 」を作曲  高校卒業後も、あらいさんと西高との関わりは続く。卒業後しばらくして「 西高気質 (にしこうかたぎ)」という吹奏楽曲を書いている。「長いマーチを書いたんですよ。途中、 西高の校歌を アレンジ して入れてるんです」。 よく聞けば、そこは大宮西高の校歌と分かるそうだ。当時書き起こした楽譜はすべて手書き。何度か、吹奏楽部の定期演奏会で演奏されたという。この譜面、今も吹奏楽部のどこかに残っているのだろうか。どのような楽曲か、聴いてみたい。 「 THE NOISE 」という吹奏楽団を立ち上げたのも、当時のあらいさんだった。当初は大宮西高吹奏楽部のOBバンドという位置づけ。初回の演奏会を 大宮市民会館 (現在のさいたま市民会館おおみや)で行っている。演奏会にあたり、当時の大宮市長(新藤享弘氏)に招待状を送った。当日、市長は公務で来ることはできなかったが、オレンジジュースの差し入れをいただいたそうだ。それを縁に、あらいさんは演奏会のたびに招待状を送り、 市長も公務が空いているときは足を運んでくれるようになったという。  充実したプライベートが続く反面、仕事の調子が良いとは言えなかった。務めていた会 社が立ち行かなくなり、 退職を決意 。次の職は決めていなかった。音楽活動もやめざるを 得ない。その頃のあらいさんは、すでに結婚して長男が生まれていた。悩んだ末「漫画家 になりたい……」そう夫人に打ち明ける。夫人は、しばし絶句したという。 最初は戸惑っていた夫人も「私がパートに出るから」と、あらいさんの背中を押した。 かくして、家事と子育ての「主夫」兼漫画家 としての生活が始まる。2ヶ月かけ、4コマ漫画を約120本を書き上げ、持ち込んだ。 ある出版社で、編集長に「今、何やってる の?」と聞かれた。夫人がパートに出て、自分は子育てをしな

西高伝 あらい太朗さん 前編

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好きなことに明け暮れた、西高時代   あらい太朗さん(漫画家、ラジオパーソナリティ) 直筆のひと言メッセージを掲げるあらいさん。「西高気質」は、ご自身が作曲した吹奏楽曲に由来する。 今回からスタートするシリーズ 「大宮西高伝」。このコーナーでは、現在活躍する大宮西高卒業生の素顔に迫っていく。 第1回目は、漫画家、ラジオのパーソナリティなど、多方面で活躍している、 あらい太朗さん にスポットを当てた。 あらい太朗さんのルーツの一端 である、大宮西高に在学していた頃の思い出と、卒業後、現在に至るエピソードをうかがった。 あらいさんには、このタイトル 「大宮西高伝」を本紙のために書き下ろしていただいた。この場を借りて、御礼申し上げます。 “漫研” に入りたいと 大宮西高へ  高校受験を控えた中学時代、あらいさんが大宮西高を選んだのは、明確な理由があった という。それは「 漫画同好会 (当時)があった高校が、この地域では西高しかなかったか ら」。「もちろん学力と照らして(見合ったところ)という前提はありますよ」。笑顔が こぼれた。 小さい頃から 絵を描くこと が好きだったというあらいさん。なるほど、今の職業に通じるルーツは漫画同好会で培われたのだろうか。実はあらいさん。高校入学前の中学3年間は、 吹奏楽部 で トロンボーン を吹いていたという。その縁もあって、西高に入学後、吹奏楽部から声がかかる。同級生の神田くんと見学に行くと、経験者で、しかも不足している男子部員と言うこともあり、先輩からの熱烈な勧誘を受ける。根負けしたあらいさんは、 漫画同好会との「 兼部 」を条件に入部することにした。 “漫研” 入部も、 吹奏楽 の道へ  あらいさんに付き添った神田くんも、先輩からの誘いの声がかかる。神田くんは「付き 添いに来ただけ」と頑なだったが、「もし、やるとしたらどの楽器?」という先輩の問い に「 トランペット 」と答えたことで、なし崩し的に吹奏楽部への入部が決まったそうだ。 「今でも、たまに吹いてるんじゃないかなぁ」。3年間、同じ部活で過ごした友人に 思いをはせた。 あらいさんは約束通り、しばらくは吹奏楽部と漫画同好会を掛け持ったものの、ぞれぞれの部活で、発表会に向けて本格的な活動が進むにつれ、「このままだと、ついてこられないかもし

はじめのことば

ブログやります! ❚ ありがとう西高…? 私たちの母校、大宮西高は、来年度を境に、中高一貫校へと生まれ変わります。これを機に、お世話になった西高に恩返しができないかと、卒業生有志により「ありがとう西高!」実行委員会を発足いたしました。出典: ありがとう西高新聞 1 号 要は西高の為にいろいろやろうぜって感じです。 ❚ で、なにやってんの?  来年の 3 月に予定している閉校式をゴールとし、それに向けた広報活動をしています。具体的には インスタグラムで 写真をアップしたり、ツイッターで情報発信したり。あとは宮西を絡めたイベントなんかも企画しています。他にも学校行事のお手伝いとか…いろいろやってます。ガンガンいこうぜ精神です。 ❚ てかお前 だれ?  2016 年卒業( 52 期生)の杉山大貴です。当時は副会長 をやっていました。生徒会のつながりでこのプロジェクトに参加して、気付いたらブログ書いてます。 多分ぼく以外の記事も今後出ると思います。 ❚ ブログはなにやんの? ①  西高伝の転載 ②  対話形式のインタビュー ③  その他 ① の西高伝とは宮西の卒業生にインタビューをしたものでありがとう西高新聞のコーナーの一つです。過去記事を随時アップします。(実は西高の HP にある OB のページからこの新聞の全文は読めるのでぜひ) ② も卒業生にインタビューをするのですが、西高伝とは違いブログ用に対話形式でまとめたものをアップします。おそらくこれが一番ブログっぽいやつです。 ③ は日々の活動の報告だったり、イベントなどのアナウンスをします。 なるべく週1ぐらいで更新できるようにバッチリがんばります。 ❚ また次回も見てあげる おお 神よ! この者たちに ひとときの 休息を あたえたまえ! 次回からは真面目にやるのでこれからよろしくお願いします。 ありがとう西高の SNS もぜひ!   Instagram→ https://instagram.com/nishikouarigatou?igshid=zdkf5qr5mo15 … Twitter→ https://twitter.com/nishiko_arigato  FB→ ht