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西高伝 戸塚健一さん 前編

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失望から、ようやく見つけた充実感 戸塚健一さん(革職人) 西高時代を振り返り、笑顔を見せる戸塚さん。自身の工房にて。  大宮駅東口からバスで30分ほど。閑静な住宅街の中に、その工房はある。「CrumsyLife」と屋号の書かれた外壁。横付けされたバイク。そして何よりも、窓の内側からのぞく牛の頭骨はレプリカだろうか。圧倒的な存在感を放っている。 工房の代表は、戸塚健一さん。 ここでは、ハンドメイドで革製品を制作しており、アーティストやスポーツ選手からのオーダーも絶えない、知る人ぞ知る存在だ。戸塚さんは、どのような西高生活を送ったのか、お話をうかがった。 高校進学と 失望感 「単純に家から近かったんです」西高を選んだ理由について、戸塚さんは口を開く。当時の自宅から、自転車で10分ほどだった。実は戸塚さんには、他に行きたい高校があった。その高校に、一度は願書を出したものの取り下げることになる。「確実に進学できる高校へ」という、両親の強い意向のためだっ た。 親が決めたことは、絶対だと思っていた中 学時代の戸塚さん。積極的に行きたいわけではなかったが、大宮西高へ進むことになる。 中学3年間、勉強してきたことが無駄になるのかと、失望感もあったという。 仲間と 手にした成績 中学生の頃、戸塚さんは、ある夢を抱い ていた。――将来は国内メーカーで、バイクのエンジンを開発したい。そのために、いずれは大学で機械工学を学ぼう。高校でも「ロボコン」のような場で活躍したい。 しかし、自分が進んだ大宮西高には、そもそも環境がない。戸塚さんは入学早々、目標を見失っていた。日々、思い通りにできない窮屈さに「なんでこんなに理不尽なんだろう」と思うこともあった。 現在の戸塚さんは、こう振り返る。「機械工学を学びたければ、勝手に学ぶこともできたわけです」。それが許される、大宮西高の自由な校風を活かせなかったのは、 若さゆえの過ちと苦笑する。燻ぶってばか りいたわけではない。中学時代に経験した軟式テニス部に所属すると、1年生でレギュラーの座を掴む。賞やタイトルを取ったことがなかった当時の軟式テニス部に、4部リーグ準優勝の成績をもたらした。3年生になると、県大会ベスト8にも貢献する。 「たまたま、中学時代に(軟式テニスで)強かったメンバーが、西高に集まったんですよ」

西高伝 山田守男さん

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世代を超え、現役へ注ぐ熱い思い 山田守男さん 猛暑の中、取材に応じてくれた山田守男さん。視線の先には現役野球部の姿があった。  取材時は2018年8月。まだ暑い日差しが照り付ける夏休み中、グラウンドで野球部の練習に視線を注ぐ1人の男性がいた。男性は山田守男さん。大宮西高校第1期生の一人。そして、大宮西高創立当初から立ち上がった部活動の一 つ、野球部の伝統も培った一人でもある。 今回の大宮西高伝では、在校当時は野球部のキャプテンを務め、 現在は、野球部OB会会長の山田守男さんに話をうかがった。 入学後、西高とともに転々と  山田さんは大宮西高(当時は埼玉県大宮市立高等学校)が創立した1962年に入学してい る。あえて当時の新設校を選んだきっかけは何だったのだろう。山田さんによれば、当 時、偏差値という指標はなく、中学生の頃にアチーブメントテストと呼ばれる学力テスト を受験。この結果で受験する高校が選別された。志望校の選択も時代を映す。 山田さんが入学した頃の大宮西高は「最初は日進の自衛隊(の場所)だったんですよ」。遠くを見つめるように、山田さんは歴史の一端を語り始める。 山田さんの記憶によれば、当時の校舎は4つの教室と職員室があるくらいで、「もともと化学学校だったところを西高の校舎として使ったんです」。そのため、自衛隊員と同様に、自衛隊の門をくぐって登下校していた。 その後、山田さんが高校2年生のときには、現在の桜木小学校の場所へ。3年生のと きには、現在の三橋中学校の場所へと、大宮西高は毎年のように移転を繰り返した。 野球部の始まりに 懸けた思い  ところで、山田さんが所属した野球部はいつ頃から活動していたのだろうか。答えは、 創立当初からだという。「グラウンドはないけれど(野球部を)作ったんです」。山田さんたち当時の野球部は、学校が移転を繰り返しながらも、近隣のグラウンドを借りるなどして練習に励んだ。 「下手だったけど」と山田さんは前置きしつつ、野球好きな者同士が集まっていたという当時の野球部。キャプテンを務めた山田さんは、時に仲間に厳しく接することもあったと語る。努力は実り、2年目の春には見事、 県大会ベスト8の成績をおさめた。山田さんは「仲間がついてきてくれました」とチームメイトへ思いを馳せた。 山田さんは卒業後、仕事のため

西高伝 長谷川楽久人さん

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退学危機を乗り越えた、先生との絆 長谷川 楽久人さん(イベントディレクター) 忙しいなか、仕事の合間に取材を受けてくれた長谷川さん。   彼はいつも忙しそうだ。都内のイベント会場、リハーサル進行を一通り仕切ると、タクシーで別の現場へ。複数イベントを同時進行で担当することも珍しくない。 小規模な記者発表会から、数十万人を動員するモーターショーまで。彼が裏で支えているイベントは数多い。業界大手のイベント制作会社でテクニカルディレクターを務める長谷川楽久人(たくと) さんに高校時代の話を聞いた。 不運な事故、 そして退学の危機   いたって真面目な風貌の長谷川さんだが、高校時代は「不真面目な生徒だった」と語 る。1、2年生の頃の思い出は曖昧なものしか残っていない。適当にバイトして、適当に 遊んで、授業も適度にサボって。の繰返し。 そんな高校生活を見直す転機になったのは3年生の春のことだった。「振り返ってみたら、高校生らしいことを全然やっていなかっ た」と立ち止まる。3年目は逆に、思いっきり高校生らしいことに振り切ってやろうと、 一念発起。文化祭の実行委員に立候補した。「入ってみたら結構面白くて、先輩後輩というタテの繋がりができたのがありがたかった。部活に入っていなかったから、後輩との接点はこれだけ。でも、いまでも飲みに行ける仲です」と振り返る。そんな、高校生らしい生活を満喫しはじめた長谷川さんに、突然の悲劇が襲った。 大型トラックとの交通事故。意識不明になるほどの大怪我を負った。複数の骨折に加え、左腕の神経が切断され、一時的に動かなくなった。何度かの手術と辛いリハビリを経て、退院できることになった長谷川さんだったが、また悲劇が襲う。それは、出席日数の不足とテスト欠席による留年の危機だった。 尽力してくれた 恩師への感謝  「成績自体はそんなに悪くなかったんだけど」と前置きしながら、「1、2年生の頃か ら、欠席が多かったこともあって出席日数は元々卒業ギリギリだった」その上での長期入 院。卒業は絶望的だった。長谷川さん本人も 「留年は覚悟したし、退学も覚悟しつつあっ た」と振り返る。 そんな彼を救ってくれたのは、担任の田中建先生だった。卒業を諦めかけていた長谷川さんを励まし、出席が足りなかった各教科の先生方に、卒業に向けた補習を個別交渉。卒業

西高伝 大越憲和 後編

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友人、お客、人に恵まれ歩む代替わり 大越 憲和さん(寿司店店主) カウンター越しに笑顔の絶えない大越さん。店を継いだ頃は高校時代の友人にも「ずいぶん助けられた」と語る。 「引退後」に 自由を謳歌   恩師の助言から、家業を継いで寿司職人の道を歩もうと決めた大越さん。高校3年の夏で野球部を引退すると、その後は「楽でした」と笑う。「仲間は、本格的に受験シーズンに入るわけですけど、僕は就職ですから」 「卒業してから就職で必要になるので、原付の免許を取りに行ったりもしてました」。 放課後は教習所へ通うため、時に原付用のヘルメットを抱えて登校したこともあったそうだ。「本当はそんなモノ持って来ちゃいけなかったんでしょうけど、先生たちは黙認してくれてました」。当時、原付やバイクの免許を取るにも学校の許可が必要だっただけに、大越さんは先生方の理解に支えられたと感謝をにじませる。 学校行事では、高校3年の文化祭が印象深かったようだ。「クラスでアイスクリーム屋さんをやったんですよ。盛り上がりましたね」。それまで野球部一色だった大越さんも、このときのクラス全員の一体感は忘れられないと遠くを見つめた。 マニュアルのない 修業時代   高校卒業後、大越さんは銀座の寿司店に就職する。いわゆる外食チェーン店ではないからマニュアルはなく、見聞きしたことを身体に叩き込む、文字取りの修業時代を過ごした。「最初は本当に下働きですよね。掃除だったり、先輩が作る賄いの手伝いだったり」。休日も「自分で魚を買ってさばいたり、友人の料亭に手伝いにも行きました」。 何年間修行をしたから寿司を握れるという世界ではない。親方に仕事ぶりを認められて、初めてカウンターに立つことが許される。さらに、親方の握った寿司しか食べないという常連も少なくない。それでも「『お前が握れ』と言ってくれる方もいて、そういう方に助けられました」大越さん振り返る。野球部仕込みの張りのある挨拶を気に入ってくれたお客さんもいたそうだ。意外なところで 野球部の経験が役立ったと大越さんは笑う。 そんな修行も8年を迎えたある日、突然、お父さんが倒れたと連絡が入る。一命は取り留めたものの、寿司が握れる身体には戻らないお父さんに、大越さんは実家の寿司店を継ぐ決心を固めた。今から20年ほど前のことだ。 世代交代、 「良さ」

西高伝 大越憲和さん 前編

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野球部を通して学んだ仲間の大切さ 大越憲和さん(寿司店店主) 高校時代を語る大越さん。仕込みと接客の合間を縫って取材に応じてくれた。  その店の名は「大寿司(ひろずし)」。繁華街に面した店ではないが、埼玉県で一番良いネタが集まることで知られ、県外から足を運ぶ常連も少なくないという。表にかかる屋号の入ったのれんをくぐると、奥から張りのある声に出迎えられた。 活躍する大宮西高卒業生に迫る大宮西高伝。今回は寿司店店主、大越憲和さんに、高校時代を振り返っていただいた。 先輩に誘われた 「大宮西高」  野球部に所属していた中学時代の大越さんには、尊敬する先輩がいた。その先輩は大宮西高に進学。大越さんが進路を考える頃になると「良い学校だから、オマエも来いよ」と 誘われた。実は、浦和南高校への進学を考えていた大越さん。しかし当時、浦和南には軟式野球部しかなかったため、迷いがあった。そこに野球部でつながる先輩から声が掛かり、それならばと大宮西高に狙いを定める。 それと、と大越さんは続けた。「姉が私立の学校にに通っていたので、自分は学費が安い、市立の方が良いだろうという思いもありました」。中学生の頃から、家族を気遣う一面を持っていたようだ。 大宮西高に入学すると、もちろん中学時代の先輩の後を追い、野球部に入部。「やっぱり野球部ですから、どうしても部活が中心の高校生活になりますよね」大越さんは頭をかき、目を細める。外野の守備位置を流動的に担い、最後には副キャプテンを務め上げた自身の姿を思い出したように見えた。 厳しくも、チームの 大切さを教わる  しかしながら、野球部では順風満帆とはいかなかった。「なにしろ、ケガが多かったん ですよ」大越さんは苦笑する。「骨折もしたし、靭帯を伸ばしたり、ひと通りやりました ね」。練習もキツイが、治療とリハビリで練習できない状況はもっとキツイ。それで何度 か、部活を辞めようと思ったこともあったそうだ。その頃を振り返り、大越さんは「け ど、辞めなくて良かったですね」静かに語った。 当時、野球部の監督は体育科の鈴木先生が務めていた。「鈴木監督は、厳しかったですね」大越さんは再び目を細めて続ける。「厳しかったですけど、3年間、チームの大切さを教わりました」。 ところで、大宮西高野球部OBは例年、マスターズ甲子園に挑んでいる

西高伝 戸塚健一さん 後編

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自由な校風、可能性は自分次第で 戸塚健一さん(革職人) 西高卒業後を語ってくれた戸塚さん。取材中は笑いが途絶えない。  両親の意向から、志望校ではない大宮西高に入学した戸塚さん。 紆余曲折ありながらも、結果的には充実した学校生活を送ることができた。 高校卒業後、ようやくやりたかった機械工学の道へ進めると思った矢先、またも両親から反対され、あえなく進路を変更する。 店内に座る牛骨は本物だというCrumsy Life代表、戸塚さんから前回に引き続き話をうかがった。 教授と単位と 菓子折と 戸塚さんは一浪の末、法政大学経営学部に入学。市ヶ谷キャンパスは当時、浦和市の実家から十分通える距離だったが、反対ばかりの両親から離れようと、大学の寮に入った。 彼女ができると、戸塚さんは中野区にアパートを借りて同棲を始める。ほどなく親元からの仕送りは止まった。戸塚さんは生活費に悩んだ末、大学を辞めて働こうと決めた。 退学届けを出そうとすると、大学の事務員さんから事情を聴かれた。不意を突かれてありのままを話したところ「うちの大学には夜間部があるんだから」と編入を勧められる。 助言に従い、戸塚さんは大学3年生で、夜間部に編入。しかし、バイク店でのアルバイトに精を出し過ぎ、卒業間近に単位不足が発覚する。教授のところへ菓子折りを持って、追試の機会を懇願。「それでも合格点が取れなくて」戸塚さんは身を縮めた。さらに高価な菓子折りを持って教授に頭を下げると、これが最後と2回目の追試を許してくれた。教授の心遣いで卒業できたと、戸塚さんは感謝を隠さない。 シングルファーザー の職業選択 戸塚さんには、留年できない理由があった。それは付き合っていた女性が妊娠し、出産が迫っていたためだ。大学卒業後、晴れて結婚。出産も立ち会った。このままバイク店の仕事を続け、いつか自分の店を出すのかな。ぼんやりと将来を描いていた矢先、戸塚さんはほどなく離婚。シングルファーザーとなった。今から20年ほど前のことだった。 乳児を抱えてバイク店の仕事は続けられない。けれど、バイクに下げるような革製バッグなら、自宅で子供の世話をしながら作れるはず、と行動に移す。 経験こそなかったが、幼い頃からミシンの前に座る母の姿を見ていた戸塚さんは、自分もできるという確信があった。「今なら絶対、そんな理由で(仕事