西高伝 長谷川楽久人さん

退学危機を乗り越えた、先生との絆

長谷川 楽久人さん(イベントディレクター)

忙しいなか、仕事の合間に取材を受けてくれた長谷川さん。
  彼はいつも忙しそうだ。都内のイベント会場、リハーサル進行を一通り仕切ると、タクシーで別の現場へ。複数イベントを同時進行で担当することも珍しくない。 小規模な記者発表会から、数十万人を動員するモーターショーまで。彼が裏で支えているイベントは数多い。業界大手のイベント制作会社でテクニカルディレクターを務める長谷川楽久人(たくと) さんに高校時代の話を聞いた。

不運な事故、 そして退学の危機

  いたって真面目な風貌の長谷川さんだが、高校時代は「不真面目な生徒だった」と語 る。1、2年生の頃の思い出は曖昧なものしか残っていない。適当にバイトして、適当に 遊んで、授業も適度にサボって。の繰返し。 そんな高校生活を見直す転機になったのは3年生の春のことだった。「振り返ってみたら、高校生らしいことを全然やっていなかっ た」と立ち止まる。3年目は逆に、思いっきり高校生らしいことに振り切ってやろうと、 一念発起。文化祭の実行委員に立候補した。「入ってみたら結構面白くて、先輩後輩というタテの繋がりができたのがありがたかった。部活に入っていなかったから、後輩との接点はこれだけ。でも、いまでも飲みに行ける仲です」と振り返る。そんな、高校生らしい生活を満喫しはじめた長谷川さんに、突然の悲劇が襲った。 大型トラックとの交通事故。意識不明になるほどの大怪我を負った。複数の骨折に加え、左腕の神経が切断され、一時的に動かなくなった。何度かの手術と辛いリハビリを経て、退院できることになった長谷川さんだったが、また悲劇が襲う。それは、出席日数の不足とテスト欠席による留年の危機だった。

尽力してくれた 恩師への感謝

 「成績自体はそんなに悪くなかったんだけど」と前置きしながら、「1、2年生の頃か ら、欠席が多かったこともあって出席日数は元々卒業ギリギリだった」その上での長期入 院。卒業は絶望的だった。長谷川さん本人も 「留年は覚悟したし、退学も覚悟しつつあっ た」と振り返る。 そんな彼を救ってくれたのは、担任の田中建先生だった。卒業を諦めかけていた長谷川さんを励まし、出席が足りなかった各教科の先生方に、卒業に向けた補習を個別交渉。卒業に向けた課題を集め、卒業までの道筋をつけてくれた。文字通り「山のような」課題ではあったが、何とか提出し、長谷川さんは無事に卒業することができた。「田中先生がいなかったら、たぶん卒業できなかった。先生には一生頭があがらないです」とつぶやく。 その後、1年間の浪人を経て、都内の大学に進学した長谷川さん。さらに神経移植手術を経て、左腕の神経も接合され、今では事故前とほぼ変わらない活動ができるようになっている。

最後に皆で 集まれる場を

 悲劇を乗り越え、忙しく活躍する日々を送 る長谷川さんに、西高が無くなることについて聞いた。「もう決まったこと。仕方ないこと」落ち着いた口調で続けた。「けど、せっかくだから皆で集まりたいですね」。
 閉校式などのイベントが開催されるなら、 裏方には長谷川さんの姿があるに違いない。

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