西高伝 戸塚健一さん 後編
自由な校風、可能性は自分次第で
戸塚健一さん(革職人)
両親の意向から、志望校ではない大宮西高に入学した戸塚さん。
紆余曲折ありながらも、結果的には充実した学校生活を送ることができた。
高校卒業後、ようやくやりたかった機械工学の道へ進めると思った矢先、またも両親から反対され、あえなく進路を変更する。
店内に座る牛骨は本物だというCrumsy Life代表、戸塚さんから前回に引き続き話をうかがった。
教授と単位と 菓子折と
戸塚さんは一浪の末、法政大学経営学部に入学。市ヶ谷キャンパスは当時、浦和市の実家から十分通える距離だったが、反対ばかりの両親から離れようと、大学の寮に入った。
彼女ができると、戸塚さんは中野区にアパートを借りて同棲を始める。ほどなく親元からの仕送りは止まった。戸塚さんは生活費に悩んだ末、大学を辞めて働こうと決めた。
退学届けを出そうとすると、大学の事務員さんから事情を聴かれた。不意を突かれてありのままを話したところ「うちの大学には夜間部があるんだから」と編入を勧められる。
助言に従い、戸塚さんは大学3年生で、夜間部に編入。しかし、バイク店でのアルバイトに精を出し過ぎ、卒業間近に単位不足が発覚する。教授のところへ菓子折りを持って、追試の機会を懇願。「それでも合格点が取れなくて」戸塚さんは身を縮めた。さらに高価な菓子折りを持って教授に頭を下げると、これが最後と2回目の追試を許してくれた。教授の心遣いで卒業できたと、戸塚さんは感謝を隠さない。
シングルファーザー の職業選択
戸塚さんには、留年できない理由があった。それは付き合っていた女性が妊娠し、出産が迫っていたためだ。大学卒業後、晴れて結婚。出産も立ち会った。このままバイク店の仕事を続け、いつか自分の店を出すのかな。ぼんやりと将来を描いていた矢先、戸塚さんはほどなく離婚。シングルファーザーとなった。今から20年ほど前のことだった。
乳児を抱えてバイク店の仕事は続けられない。けれど、バイクに下げるような革製バッグなら、自宅で子供の世話をしながら作れるはず、と行動に移す。
経験こそなかったが、幼い頃からミシンの前に座る母の姿を見ていた戸塚さんは、自分もできるという確信があった。「今なら絶対、そんな理由で(仕事を)始めないです。『若さ』ですかねぇ」頭をかきつつ、戸塚さんは大胆な「路線変更」を振り返る。
順調な滑り出しではなかったものの、作品が雑誌や本で紹介されると、徐々に軌道に乗ってきた。今では往年のロックアーティストやスポーツ選手から、様々な依頼が入る。
今だからわかる 自由の価値
改めて、戸塚さんにとって大宮西高で過ごした3年間は、どんな時間だったのだろう。「当時は自由な校風をネガティブに捉えていました」戸塚さんは続けた。「本当は自分次
第で、いろいろできたんですよね」。それが分かったのも、わりと最近と戸塚さんは再び
頭をかく。「もう一度通いたい。でも校則が許してくれないか」。トレードマークの長い
髪と髭に手をやりながら、最後までサービス精神旺盛に笑いを誘った。
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